いつの間にか季節は秋になり,紅葉の移り変わりに言葉を忘れて孤独な感動が蘇る。やがて,木々は色を落とし,硬直した血管,剥き出しの神経,を思わせる枝々をさらけ出す。 それは喪失なのではけしてない。冬の季節を生きるための身構えなのだ。冬の季節を生き抜くのに,虫などの生き物の注意を引く色や匂いは必要がない。身を守るすべてを脱ぎ捨て,それこそがただ身を守る術でもあるかのように,木々は冷え込んだ空気の中に裸身をさらしはじめる。
 
 この季節こそが木々にとって,実は価値ある生の時期だとは考えられないか。食と性に象徴される生き物としての活動の停止。私たちの視線を呼び止めることもなく,ひたすらの中空に,ただそれは澄み切った大気という闇の中に気配を殺して立ちつくしている。そのある姿は私たちの意識の感傷も,あるいは獣の温もりさえも拒絶するかのようである。木々は無防備に,だがその存在の一切を賭けて宇宙との交感に全身全霊を捧げているといわなければならい。類としての生死を繰り返す波のリズムの一部としてではなく,ある種,絶対的自己の瞬間を生きる営みの渦中を経験しているといっても良い。
 
 「ひきこもり」とは,冬を生ききる一つの形態なのだ。それは生きる力,適応する力の欠如でも,ましてや生き物としての欠陥の露呈でも何でもなく,生あるものが根底に持つ本来的な形そのものである。そしてその形は環境に左右されてしか,成立しない。
 ひきこもる彼もまた,その場に立ちつくし,全身全霊を捧げ,周囲を飛び交う信号に耳をそばだてているにちがいない。というよりも,存在がある種のアンテナと化して,その季節ただひたすらにその形を生きている。彼にとってその冬は,辛く長く,そして厳しく,そのことによって豊かさもまた手に入れることの出来る季節なのだ。言葉をふるい落とし,胎児のような裸身となって,全世界の音楽に耳を傾けている。
 
 社会的な後退現象として,ひきこもりが語られ,問題視されるようになって久しい。明治や江戸といった機械文明が未発達の時代までは,同様のことであっても悪くて変人扱いですんでいたにちがいないことが,現代ではマスメディアに乗って,ある意味では言いたい放題に取り上げられている。こうした「社会的問題視」が,当事者や家族にどんな重たい負荷をさらに倍加させているかを考えると,現代が「問題」を深刻化し,助長する構図を考えないではいられない。
 
 先日も,メディアは「ひきこもり」の青年と少年の,同日に起きた家族殺人の報道を行っていた。またかという思いと,この報道が他のひきこもりの青少年やその家族に及ぼすだろう精神的な影響を考えずにはいられなかった。本人も家族も,自分たちの未来がそこに到達する思いを投影させたり,まさか自分たちはという否定的な見方をしたりなど,さまざまな反応があり得たにちがいないのだが,いずれにせよ,こうした事件,報道を見聞きするにつけ,何らかの形で当事者たちの心を閉塞感に向かわせるように働きかけることは間違いないことのように思われる。 
 
 「ひきこもり」と事件を短絡化して,安易に,また中途半端に,一番誤解や不安を生み出しやすい形で報道を行っているという批判はあっても,だからといってこの種の報道はすべきではないと言うつもりはない。マスメディアの側に起こっている無意識と,当事者たちの側に起こっている誤解とが腹立たしくてならないのだ。勿論,自分自身がこの無意識や誤解から常に自由であり得るはずがない。どうすることも出来ないことだと知って,どうすることも出来ない我が身に心を引き裂かれ,また,心を引き裂こうとしていると言っていい。
 
 「ひきこもり」という,一つの言葉に括られた事象は,しかし,その姿形は一つ一つが異なっていて,一過的なものから,病的に深刻化したものまで,多様に存在するにちがいない。私はそのいちいちを理解し,そのいちいちに対処出来るとは思ってはいない。有効な助言やアドバイスが出来るかどうかも疑問である。もちろん,その手の資格も持たなければ,系統的に学んだという経験もない。
 では,なぜこの問題に口を出すかと言えば,若いときの「ひきこもり」に似た経験があることと,小学校の教員として「不登校」の子どもに関わった経験があることで,このことに強く引っかかりを感じ,また自分なりに考え続けてきた事柄だからである。
 そればかりではない。3月,定年をだいぶ前に,教員の職を辞めた。これなどは,見方によれば「社会的ひきこもり」そのものと言えるだろう。それで何が悪いか。私は,そう思う。「ひきこもり」ながら,働くことが出来ないか。私は懸命にその道をいま,探している。
 
 「ひきこもり」状況やその様態が一様ではないという認識を持ち,解決や対処を相談される専門家でもないという立場の自分が言える言葉,言える考えは限られている。当事者たちを萎縮させない言葉,不安を募らせない言葉,誤解を招かない言葉,一本の冬の木立のようにある在り方の必然について,考えていることをありのままに語ってみたいというだけだ。
 言ってみれば,救いとなる言葉ではない。なぜならば,「ひきこもり」は救わなければならないものという認識がないからだ。救わなければどうしようもなくなると深刻化して受け止めることによって,「ひきこもり」は深刻化の度合いを進める。
 手放しで,何とかなるという言葉も,嘘になるだろう。報道などの大げさな問題視,あるいは周囲の過剰な反応が,親や本人に焦りをもたらし,事態を悪化させる方向に向かわせる,そういった種はいくらでも転がっている。時間を待っていれば,事態は必ず打開されると言い切れないのが,この種の問題でもある。
 
 結論から言ってしまえば,親と子が,今ある在り方をゆったりと考えることが出来て,そうして現に今ある在り方を肯定することが出来るようになることが大事なことなのだ。今の在り方を在り方として,それを捉える見方,考え方がそっくり入れ替わることが出来たら,それ以外のことは些細なことと考えていい。そうしてしかし,それは実際のところ,ひきこもり相談者の形で家庭を訪問し,そうしてひきこもる本人を家から離す世話よりも,より難しく不可能に近いことなのかもしれない。すべての,「常識」という幻想から自由であること。血で血を洗うのではなく,「知で知を洗う」,そうした労苦をともなった叡知を必要とするだろう。そうしてそれは当事者ばかりではなく,周囲のものもまたそのように変わっていかなければならない。
 
 そうした「ひきこもり」を別の目で見る萌芽を提供するのが,唯一私には吉本隆明の「ひきこもれ」の本,一冊であると思われる。
 この本は題名が示すとおり,「ひきこもり」を問題視する社会,マスメディアの報道にいわば挑戦的な内容になっている。その主調音は,「ひきこもる」ことは決して悪いことではない,ということである。そればかりか,「ひきこもり」の効用についても,その主張の力はこめられている。そして「ひきこもりは正しい」,そう,公言している。
 
 「ひきこもり」家族の,事件として明るみには出ないまでも,その悲惨な実態にふれることがないから,悠長なことが言っていられるという批判は起こりうるだろう。だが,そんな批判はお見通しの上での,見解であると私には思われる。何よりもこの社会で唯一,「ひきこもり」者,その家族に連帯する,応援者としての意思表明がこの本の随所に表れていると言っていい。言ってみれば,これほど深く「ひきこもり」を理解したものは他に見あたらない。世間一般に流通する他人事としての第三者的な「ひきこもり」概念を粉砕し,無化するだけの力を備えている。
 比喩的に言えば,一渡り世界について,文明についてぐるりと一周し,確立した認識のもとに,この「ひきこもり」問題について語っている。平易な言葉で平易な事柄のように語っているが,内容は深い。それこそ,ひきこもって,十分に熟慮し,考慮しなければ,本当には理解出来ないかもしれないのである。